市指定名勝

ページID1006221  更新日 2022年1月24日

印刷大きな文字で印刷

59.観濤所(かんとうじょ)江戸時代後期

写真:碑


天保4年(1833年)頃、水戸藩第九代藩主徳川斉昭公がこの地を訪れ、聞きしに勝る雄大な景観を賞賛し、藩内随一の波浪の見所として「観濤所」と命名し、自ら揮毫した碑を建てました。昭和10年に平磯町では、被覆堂を建て碑の保護を図りました。また明治時代に活躍した大町圭月の紀行文「水戸の山水」や、菊地幽芳の小説「乳姉妹」にも描写されています。(被覆堂は東日本大震災の際に倒壊したため、現在は碑の表面に保護処理を施してあります)

60.姥のふところ(うばのふところ)江戸時代

写真:碑が設置されている様子


往年、幅3.6m(メートル)、高さ1.8m(メートル)ほどの洞窟のような人の入れる奇岩があり、その形から「姥のふところ」と呼ばれるようになり、潮湯治(しおとうじ)や磯遊びの場所として知られていました。しかし、この岩は天保年間の護岸工事の際に誤って取り除かれてしまったそうです。現在は海岸道路や海中プール等により往時の面影はありません。水戸藩第二代藩主徳川光圀公は「とりあげてみればやさしき子安貝乳房たつねよ姥の懐」と詠んだと伝えられており、碑が建てられています。

61.水門帰帆(みなとのきはん)江戸時代後期

写真:斉昭公が隷書体で揮毫した碑


水戸藩第九代藩主徳川斉昭公が、天保4年(1833年)に選定した水戸八景のひとつです。斉昭公自ら水戸八分と呼ばれる隷書体で揮毫(きごう)した碑が建てられています。碑は高さ約2m(メートル)、幅約1.2m(メートル)で、常陸太田市と日立市にある真弓山で算出される大理石の寒水石が用いられています。帆の文字は古典文字が当てられています。もとの那珂川は大きく蛇行しこの碑近くに河口があり、出船入船を間近に見ることができました。太平洋はもちろん筑波山や日光連山も見ることができる風光明媚な地でした。
「雲のさかひしられぬ沖に真帆上げてみなとの方によするつり舟」 烈公(斉昭)

このページに関するお問い合わせ

文化財室
〒312-8501 茨城県ひたちなか市東石川2丁目10番1号
代表電話:029-273-0111 内線:7307、7308
ファクス:029-274-2430
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。