市指定史跡
47.夤賓閣跡(いひんかくあと)江戸時代前期
水戸藩第二代藩主徳川光圀公が、日和山と呼ばれる台地に元禄11年(1698年)に建設した水戸藩の別邸です。夤賓閣の名称は中国の書『暁典』の「夤賓日出・」(つつしんで日の出をみちびく)をとり、接待所、迎賓館の意味があります。建物は、建坪が約300坪(1,000平米)で28もの部屋があり、地形を利用した高低二段の構造でした。光圀公や斉昭公など歴代藩主も訪れ、宴席や詩歌の会が催されました。建物は元治甲子の乱(1864年)で破壊されてしまい、その後湊公園として整備されました。
48.比観亭跡(ひかんていあと)江戸時代中期
寛政2年(1790年)、水戸藩第六代藩主徳川治保公が酒列磯前神社の神主磯崎山城の屋敷を訪れ、その際、屋敷の東方の高台より眼前に広がる大海原と白砂青松の海辺を景勝の地として賞賛し、翌年、その地に東屋を建てさせ「比観亭」と名づけました。史館(彰考館)総裁の立原翠軒(たちはらすいけん)が揮毫した扁額を掲げたほか、藤田幽谷(ふじたゆうこく)が作成した比観亭碑文が残されています。
49.水車場跡(すいしゃばあと)江戸時代末期
中丸川の下流右岸、那珂川と合流する近くに所在します。水車場は、水車の力を利用し、反射炉で鋳造された円柱状の砲身を内刳(うちぐり)して穴を開け、仕上げを行っていた施設です。安政2年(1855年)に大工棟梁飛田与七の設計により着工し、翌年に完成しましたが、元治甲子の乱(1864年)で焼失してしまいました。
50.首塚(忠勇戦死之墓)(くびづか(ちゅうゆうせんしのはか))江戸時代末期
元治元年(1864年)、水戸藩の内部抗争に端を発した尊皇攘夷派(天狗党)と左幕派(諸生党)の戦い「元治甲子の乱」は、茨城県下で繰り広げられ、天狗党は最後の拠点として那珂湊に集結しました。このため、8月から10月にかけての那珂湊は、天狗党と追討軍の激戦の場となりました。特に10月の部田野原一帯の戦いは激烈で、三度の大合戦が行われ、この時の追討軍の戦死者を集めて埋葬したのが首塚です。後の慶応2年(1866年)に、地元の十三奉行の人々が供養のため石碑を建てました。
51.文武館跡(ぶんぶかんあと)江戸時代末期
水戸藩第九代藩主徳川斉昭公は、天保6年(1835年)に医学・儒学・史学を主とする郷校「敬業館」(けいぎょうかん)を現在の八幡町に建設しました。その後、幕末の激動する時代に対応するため、安政4年(1857年)、この敬業館に武館の機能(演武場、鉄砲射撃場)を加えて山ノ上町に移し「文武館」が設立されました。文武館は多くの書籍を保有し、藩士や商人などが学びました。小川・潮来とともに郷校三館と呼ばれ尊王攘夷運動の拠点となりましたが、元治甲子の乱(1864)で破壊されてしまいました。
52.寺前古墳(てらまえこふん)古墳時代中期
柳沢の台地突端部に地形を利用して築かれている前方後円墳です。墳丘長は41m(メートル)、後円部直径26m(メートル)、高さ4m(メートル)、前方部幅11m(メートル)、高さ2.3m(メートル)で、前方部が著しく小さいことから、5世紀初め頃に築造されたと考えられる市内最古の前方後円墳です。
53.多良崎城跡(たらさきじょうあと)鎌倉時代末期から南北朝時代
多良崎郷の地頭として土着しますが、その末裔が鎌倉時代末から南北朝時代頃に多良崎城を築いたと考えられています。本郭は、旧真崎浦に半島状に突き出した台地上の最も高い位置にあり、その下に二の郭・三の郭が築かれ、また台地を横切る空堀や土塁などの遺構も良好に残っています。これらの遺構は、自然の地形を巧みに利用して敵の侵入を防ぎ攻めにくいように築かれています。本郭からは常滑焼の大甕の破片が出土しています。茨城県緑地環境保全地域にも指定されています。
54.飯塚前古墳(いいづかまえこふん)古墳時代後期
三反田古墳群の飯塚前支群の中で現存する唯一の古墳です。長辺30m(メートル)、短辺20m(メートル)の長方墳で、現在の墳丘高は3m(メートル)ほどですが、当初はもっと高かったと推定されます。6世紀後半から7世紀初頭に築造されたと考えられる長方墳で、市内では唯一、県内でも数少ない墳形であり重要な古墳です。
55.川子塚古墳(かごづかこふん)古墳時代中期
現在、那珂台地に残存する古墳の中でも最大級の古墳です。墳丘長は80m(メートル)を超すと考えられる前方後円墳で、後円部直径と前方部幅がともに約41m(メートル)、墳丘の高さは約9m(メートル)です。埋葬施設についての詳細は不明ですが、石造りと考えられています。墳丘表面には拭き石のほか埴輪が確認されており、この埴輪は馬渡埴輪製作遺跡から供給されていたことがわかっています。古墳の形態や埴輪の特徴から、5世紀後半に築かれたと考えられます。
56.福島藩士の墓(ふくしまはんしのはか)江戸時代末期
元治甲子の乱(1864年)の抗争が拡大していく中で、幕府は関東周辺の諸藩に天狗党追討の命を下し、幕命を受けた福島藩は遠征をし、元治元年10月9日・10日の熾烈を極めた部田野原の合戦で16名の戦死者を出しました。この戦死者は中根の堂山共同墓地に埋葬されており、墓碑には福島藩板倉家の臣、武士12名と中間4名の名前が刻まれています。なお、館山の浄光寺にも福島藩士の墓があります。
57.宇都宮藩士の墓(うつのみやはんしのはか)江戸時代末期
元治甲子の乱(1864年)の時、天狗党を鎮圧するために出兵した宇都宮藩戸田越前守の一隊が、9月6日、田彦村に陣を張りました。9日早朝、額田合戦の余勢を駆って田彦宿におもむいた天狗党と交戦となり、田彦宿はたちまち放火に包まれ灰燼に帰しました。宇都宮藩勢は惨敗し、藩士9人、役夫2人が犠牲となりました。田彦中卵塔共同墓地には、翌年の慶応元年(1865年)秋に遺族が一周忌に際して建てた2基の墓碑があります。
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